『新説幕末明治維新』

筆者の研究と創作を交えた新説で幕末・維新を書いてみます。新しい<読み物>として捉えて頂ければ幸いです

あくまでも【創作】として書いていきます。たくさんの歴史愛好家さん達と、それぞれの歴史観を共有できるような場所になればいいなと思っています

※※※※※記事に使う画像は、ネット上から無断で使わせて頂こうと思います。宜しくお願いします(ルール上問題ないのかな・・・汗)※※※※※

『ペリー来航と尊皇攘夷③』

【ペリー来航とその背景③】


引き続き、同じテーマの3回目。背景についてはこれで終わりますのでよろしくです。


幕府では12代将軍家慶が死去し、13代将軍に家定が就任します。これまで安定していた朝廷と外様大名が頻繁に交流を深めだし、この辺りから、後継職争いが激化し始めます。


1854年(嘉永6年)再度来航したペリーとの間に日米和親条約が締結。和親とは名ばかりでまぁまぁの不平等条約でした。翌年の1855年(安政元年)までの1年間に、日英和親条約、日露和親、日蘭和親、などなど多くの条約を結びます。駐日大使ハリスは、禁断のキリスト教信者でもあります。


アメリカとしては、日本に補給基地を作ることが目的ではあったでしょう。その先には、清国を始めとしたアジア諸国侵略ための戦略拠点構築があったはずです。


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この戦略は、後の太平洋戦争(大東亜戦争)の際にも説明しますが、アメリカの常套手段だと言えます。まぁ、アメリカのやり方というよりも、戦略としては決して間違っていない。
それが、正しいか誤りかを述べるのはこのブログでは極力止めようと思います。できるだけ客観的に出来事をさらっていくつもりです。


この一連の流れを弱腰外交と批判した多くの大名や公家が出現。朝廷を前面に出し、外国に対し強硬姿勢を貫こうと主張した動きを、一般的に尊皇攘夷運動と呼びます。


(この辺りは、ちょうど大河ドラマ【青天を衝け】で扱っていますよね(笑))


しかし、表面だけしかみなければ、この構図のマジックにやられてしまうんです(笑)
幕府の姿勢は、一見弱腰とも言えます。しかし、アヘン戦争の結果を知る幕府は、死んだ振り外交に徹したとも言えませんか?外国に侵略を許し、属国となる前に外国の力を上手く取り込んで様子を伺いながら、徐々に力をつけていく作戦(国策)だとしたら・・・


一方の尊攘派は、一気に自分たちの権力を高めるため、その姿勢を利用した構図。物事は必ず裏と表の両面から観察する必要があると考えます。どちらが正しかったか?なんて無粋な話をするつもりはありません。私が言いたいことは、正しい歴史を知ること。(真実)


実際に起きた事実。それを当時の人々がどう捉え、どう動いたのか。これが歴史です。あとで都合の悪いことだけ修正したのでは、正しい歴史とはなりません。だから、事実と真実とは意味合いが大きく異なるのです。


歴史とは、過去を学び未来に活かす最も重要な学問です。そのためには、事実を曲げず、謙虚に真実を学ぶことが一番重要です。ですから何度も言いますが、教科書の信頼度を高める必要があるんです。様々な角度から考える機会を持てるような、真実を書いた教科書。それを創ることが筆者の幼少時代からの切実な願いです。


ってことなんで、いよいよ第二章も終了。本格的に幕末を頑張ってみるでござんす

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