『新説幕末明治維新』

筆者の研究と創作を交えた新説で幕末・維新を書いてみます。新しい<読み物>として捉えて頂ければ幸いです

あくまでも【創作】として書いていきます。たくさんの歴史愛好家さん達と、それぞれの歴史観を共有できるような場所になればいいなと思っています

※※※※※記事に使う画像は、ネット上から無断で使わせて頂こうと思います。宜しくお願いします(ルール上問題ないのかな・・・汗)※※※※※

『幕末の出来事要点①』


【将軍継承問題】前編


みなさんこんにちは。いよいよ、本格的に幕末について書いていこうと思います。まずは将軍後継問題から始めてみます。


1858年(安政6年)13歳の若さで家茂が14代将軍に就任。後の15代将軍一橋慶喜将軍後見職に迎えます。将軍後見職とは、公家で言えば摂政であり、実質上の代理人だと考えて良いでしょう。


この時期は、外様大名が朝廷に接近し、それぞれの思惑で次期将軍を巡る権力争いが激化しています。薩摩藩の暗躍により、和宮の降嫁に成功。公武合体(朝廷と武家の婚姻)が実現しました。和宮は有栖川宮と婚約をしていましたが、周囲の説得により降嫁に応じたと言われています。有栖川宮は、明治以降、熊本とも非常に縁の深い公家ですね。


和宮は孝明天皇の妹に当たります。この妹という関係が非常に大切だったのです。孝明天皇は源氏です。実はこれが後に大きな意味を持ってくることになります。


和宮を降嫁させる目的で、薩摩は前将軍家定の正室に、天璋院(篤姫)を大奥へ送っています。篤姫は薩摩藩主島津斉彬の養子であり、源氏ではありますが、大奥内部の工作と公武合体政策のため利用されてしまった感じがする人物でありますね。


しかし、一方でこんな見方をすることもできます。


夫である家定が1858年(安政5年)に死去しますが、この死も暗殺の香りがします。その数日後に、父である斉彬も謎の急死。そして、14代家茂(これまた謎の死)の母であり、和宮の姑という立場になります。穿った見方をすれば、権力争いの中枢にいたのが、天璋院その人だったという考え方もできるわけです。


要するに、将軍家と朝廷の双方に発言力を発揮できる立場になった


と言う事です。本人が望んだことか、誰かの策略に拠るものかは別にして、結果的にそうなったのは間違いありません。そして、この時期を境に、薩摩藩の勢力が力を増すようになっていったのもまた事実です。


また、薩摩藩内部にも藩主争いが激化していた時期も重なります。斉彬は、恐らく異母兄弟である、島津久光の手によって暗殺された可能性が高いでしょう。久光は恐らく平氏、斉彬は源氏であったと考えます。要するに母がそれぞれ源氏と平氏だったということです。


後に登場する西郷隆盛は源氏ですので、斉彬には絶対的主君として尽くしますが、久光には尽くさないどころか反発ばかりしたため、相当ひどい扱いを受けています。


話が飛び飛びになりますが、この時期は幕府内、朝廷内双方がとにかくメチャクチャ複雑です。筆者も正確に理解できていない部分が多く、未だに謎だらけです。説明するのも相当骨が折れますので、判りにくい部分も多いと思いますが、ごめんなさい。我慢してください(涙)


ざっくり話すと、公家の内部に存在する源氏と平氏による権力争いを、大名が自分の思惑で利用し、幕府内での発言力を高めようとする動きが活発になっていた時期であると理解してもらえるといいかな(汗)


またこの時期は、まだ倒幕やら維新だのと言った激しい動きは生まれておらず、単純に権力争いがメインだった時期だと言えます。(ちょうど、現在大河ドラマで描かれている時期です)


ってことなんで、次回も同じテーマに書いてみるでござんす~~

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