『新説幕末明治維新』

筆者の研究と創作を交えた新説で幕末・維新を書いてみます。新しい<読み物>として捉えて頂ければ幸いです

あくまでも【創作】として書いていきます。たくさんの歴史愛好家さん達と、それぞれの歴史観を共有できるような場所になればいいなと思っています

※※※※※記事に使う画像は、ネット上から無断で使わせて頂こうと思います。宜しくお願いします(ルール上問題ないのかな・・・汗)※※※※※

『幕末人物伝③』

【大久保利通】薩摩鹿児島

みなさんおはようございます。今日は維新三傑の一人、大久保利通について書いていこうと思います。


<大久保利通>
西郷隆盛の幼馴染であり、年齢は2歳下になります。西郷とは異なり、島津久光の側近となり藩内での発言力と存在感を高める。西郷や家老の小松帯刀らと協力し、幕末の激動期に活躍。維新後は新政府参議、初の内務卿を務めるなど、政府の中心人物としてその才を発揮する。


明治6年の政変(征韓論争)で西郷と袂を分かつことになり、西南戦争では西郷軍を征討する立場となる。しかし、戦争終結翌年の明治11年紀尾井坂にて暗殺され死去。享年49。


大久保利通は、維新の三傑と呼ばれていますが、幕末の時期までは西郷の影に隠れてあまり目立った活躍はしていません。彼の才能は、実務家としての部分が大きく、新しい仕組みを作り上げる際により発揮されたと感じます。そのため、西郷とは全く性格・性質が異なっていたようです。幕府を倒すまでは西郷の突破力新たな構築には大久保の実務力が必要だったということです。


真逆とも言える二人の性質が協力しあったからこそ、維新の大業が成し遂げなれたのではないでしょうか。しかし、彼は鹿児島ではかなり嫌われている印象を受けます。鹿児島の英雄西郷を殺してしまった張本人であるイメージが定着しているからです。


でも、維新後に於ける彼の功績は想像以上に大きく、現代の社会にも多大な影響を与えています。また、洋館造りの住宅に住んだり、パン食とコーヒーを好んだことなどから、西洋かぶれの贅沢政治家と見られていた側面もあったのですが、彼の死去後遺産を調べてみると、貯金などはほぼ皆無に近く、公共事業のため、個人的に作った借金の借用書類のみが出てきたそうです。


今の腐敗した政治家に爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいようなエピソードです。個人的には、かなり評価したい人物ですね。


大久保は源氏ですが、薩摩の田布施を捨て、維新後長州の田布施側に乗り換えました。実務を確実に遂行するため、恐らく苦渋の選択をしたものと思われます。


結果的に、このことが西郷と大久保を完全に分離させることに繋がります。また、彼の死にも少なからず影響を与えたことでしょう。


とにかく、この決断は後にとてつもない影響を与えることになるのです。


ってことなんで、今回はここらあたりまでにしておくでごわすごわすっ

×

非ログインユーザーとして返信する