『新説幕末明治維新』

筆者の研究と創作を交えた新説で幕末・維新を書いてみます。新しい<読み物>として捉えて頂ければ幸いです

あくまでも【創作】として書いていきます。たくさんの歴史愛好家さん達と、それぞれの歴史観を共有できるような場所になればいいなと思っています

※※※※※記事に使う画像は、ネット上から無断で使わせて頂こうと思います。宜しくお願いします(ルール上問題ないのかな・・・汗)※※※※※

『幕末人物伝④』

【木戸孝允】長州山口

みなさんおはようございます。今日は維新三傑最後の一人、長州の木戸孝允について書いてみようと思います。


<木戸孝允>
幕末時代までは、桂小五郎と名乗っており、あだ名は逃げの小五郎。藩医の家に生まれるも7歳で桂家へ養子に入る。吉田松陰の弟子で、松下村塾に学び、高杉晋作や久坂玄瑞らと共に尊王攘夷運動に邁進。1866年(慶応2年)長州代表として薩長同盟を締結。新政府では、参議に就任。大久保利通と新政府の礎を築く。1877年(明治10年)西南戦争の最中、病に倒れ死去。享年43。


木戸孝允は平氏です。三傑と言われる割には、あまり目立った功績もなく、人気もありません。常に誰かの影に隠れながら、退路を準備して行動していた印象が強い人物です。あだ名にもあるように、とにかく逃げの姿勢を常に持って慎重に動いていたようです。


但し、相当頭の切れる人物であったことは間違いないようです。いつ暗殺されても不思議ではない幕末の動乱期。長州の意思を貫くためにも、そういった姿勢で臨む人物が居てもおかしくはありません。しかし、新撰組が世に知られるようになった、池田屋事件に関しては笑えないエピソードとして紹介しておこうと思います。


池田屋事件は、尊皇攘夷の志士達が、会合をする目的で池田屋に集結していることを察知した新撰組が、御用改めと称して掃討したと史実では語られます。


しかし、筆者の研究では、この会合の件を新撰組に伝えたのが木戸本人だったのです。この事件以降、何故か彼は新撰組から狙われることがなくなります。司法取引をしたのだと判断できます。(チンコロしちゃったんですね)


志士の中には、肥後の秀才宮部鼎蔵や同胞である長州の志士も含まれていました。その会合に参加予定であった木戸は集合の時間に遅れて、新撰組の襲撃から運良く逃れたことになっています。ここにこそ、逃げの小五郎と呼ばれた本質が隠れているのです。


目的達成のためであれば、自分より優秀であった宮部や同胞を犠牲にできる精神。これが良いか悪いかについては語りませんが、人気が出ない大きな要因のひとつになっているのは間違いないでしょう。写真を見ても、どこか影のある、陰気な印象を持ってしまいます。


木戸は、明治10年に病に因り死去していることになっていますが、恐らく服毒により暗殺されています。維新三傑が明治10年に木戸・西郷、11年に大久保と立て続けに死去しているわけです。偶然にしては出来すぎていると感じませんか?もちろん維新直前に暗殺された坂本龍馬も同様。きちんとした理由があります。それについては、もう少し先の記事でお伝えする予定です。


ってことなんで、維新三傑に関しては一応おしまいでござんす!!

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