『新説幕末明治維新』

筆者の研究と創作を交えた新説で幕末・維新を書いてみます。新しい<読み物>として捉えて頂ければ幸いです

あくまでも【創作】として書いていきます。たくさんの歴史愛好家さん達と、それぞれの歴史観を共有できるような場所になればいいなと思っています

※※※※※記事に使う画像は、ネット上から無断で使わせて頂こうと思います。宜しくお願いします(ルール上問題ないのかな・・・汗)※※※※※

『幕末人物伝⑦』

【岩倉具視】山城京都


みなさんこんにちは。引き続き、幕末の人物について書いてみようと思います。


<岩倉具視>
公卿、堀河家に生まれるも言動が公家らしからぬことから岩倉家の養子となる。源氏ではあるが、公家ではかなりの下級であった。五摂家の一つ、鷹司家に歌道入門したことを機にその才能を開花させていく。8月18日の政変で三条実美らと共に長州の上関に流れ、そこで様々な志士と交わる中で、策士としての頭角を磨くことになる。明治16年癌のため死去。享年57。加山雄三さんや喜多嶋舞さんは具視の子孫として有名。


岩倉は、肥後横井小楠の考えを、最も具現化した人物であると筆者は考えています。公家であるがゆえに、志士達では決してできない朝廷内の工作活動を綿密に実行しています。小楠の考えについては、人物伝のあとに詳しく説明しますが、貧乏公家と言われ続け、相当苦労をした人物だけに、その考えはまさに青天の霹靂であったに違いありません。


そして、1863年(文久3年)8月18日の政変(文久の政変)により、長州に流れたことが具視を幕末の大舞台に引きずり出す大きな契機となります。ちなみに8月18日は豊臣秀吉の命日でもあります。維新後は事実上の政権トップである太政大臣に就任。三条実美が左大臣ですので、具視は右大臣。実際はナンバー2ですが、事実上のトップに立つことになります。


壮年期まではまさに日陰の人生。そして幕末の時期は決して表に出ず影で暗躍した具視。維新を迎えてようやく表舞台に登場したのでした。しかし、過去の苦労が性格を相当歪めてしまったようで、わがままし放題の側面があったように見受けられます。


とにかく、策士の印象が強い人物です。それを上手く利用した長州や薩摩。段々と倒幕のカラクリが見えてこられた方も多いのではないでしょうか。


ってことなんで、岩倉具視については簡単ですがコレ位にするでおじゃるっ

×

非ログインユーザーとして返信する