『維新十傑』
【維新十傑】
みなさんおはようございます。今日は維新十傑について簡単に紹介をします。
<維新十傑>
明治新政府発足時の中心人物であり、維新の大業を成した功績を称えられ、十傑と呼ばれています。しかし、なんとも不可思議な部分があるのです。では簡単に説明しますね。
①西郷隆盛(薩摩)②大久保利通(薩摩)③小松帯刀(薩摩)
④木戸孝允(長州)⑤大村益次郎(長州)⑥前原一誠(長州)⑦広沢真臣(長州)
⑧江藤新平(肥前)⑨横井小楠(肥後)⑩岩倉具視(公家)
まずは、前回の人物伝で紹介していない人物について、簡潔に説明をすることにします。
③小松帯刀。薩摩藩家老、大政奉還などに尽力するが明治3年病にて死去。享年36。
⑤大村益次郎。戊辰戦争で活躍。日本陸軍創始者。明治2年暗殺により死去。享年45。
⑥前原一誠。長州士族。新政府参議を務めるも萩の乱を起こし明治9年刑死。享年42。
⑦広沢真臣。長州藩士。新政府参与を務めるも、明治4年暗殺により死去。享年39。
⑧江藤新平。肥前藩士。新政府法務卿を務めるも、佐賀の乱を起こし刑死。享年40。
それにしても、みんな若いですよね~~やっぱ政治家は若くないとダメですね
<不可解な点>
①薩長土肥と呼ばれる維新の雄藩ですが、土佐の人物が一人も十傑に存在しないこと
②逆に、薩長土肥ではない、肥後の横井小楠が存在すること
③維新十傑が明治16年までに全員死亡していること
④同じ公家なのに、格上の三条実美は存在しないこと
⑤福岡県は筑前と筑後、大分県は豊前と豊後であるのに対し、肥前(現長崎県と佐賀県)と肥後(現熊本県)は分かれていること。
土佐の人物は何故誰も居ないのでしょう。薩摩の小松が居て、土佐の後藤象二郎はいない。
同じ肥州同士で、肥前の江藤と肥後の横井がいるのに、肥後は雄藩ではない。そして明治16年の岩倉を除いては、大久保の明治11年を最長に全員死亡している。
ってことはですよ、するってぇとですよ・・・つまり・・・・
明治天皇のすり替えを知っている人物が消されてしまっている時期
だと判断できませんか?坂本龍馬や中岡慎太郎はもちろん、安政の大獄などでも、その事実を知っていた人物はその多くが消されてしまっています。
十傑の人数構成を見てみると、薩摩3人、長州4人、肥前1人、土佐0人となります。それに肥後の横井小楠が入るという感じですね。
この構成をみるだけでも、薩摩と長州の田布施の同盟であるということが浮かび上がってきませんか?そして、その案を作成した人物が、横井小楠であるという真実味。
源氏と平氏のバランスについて、明治初年頃は、均衡が図れていたように感じますね。しかし、維新後実際に政治を行っていく中で、徐々にこのバランスが崩れだしたのではないかと筆者は考えています。そして、前回も書きましたが、岩倉具視の野望が炸裂、暴走を始めたのでしょう(笑)
バランスが崩れた結果、天皇をすり替えた事実が表面化してしまう危険度が増すことになりかねない。それを恐れた派閥に依る証人の隠滅工作と言えそうです。
スタート直後は、源氏と平氏が協力をしようとしていた計画から、次第に平氏の復権を狙う派閥に依る抗争に発展、それが明治6年の政変(征韓論争)や明治10年の西南戦争へとつながっていったのではないでしょうか。
※十傑については、研究者によって諸説があるものと思います※
って、ことなんで~~今日の話はあんまり面白くなかったでごわすなぁ(涙)