『新説幕末明治維新』

筆者の研究と創作を交えた新説で幕末・維新を書いてみます。新しい<読み物>として捉えて頂ければ幸いです

あくまでも【創作】として書いていきます。たくさんの歴史愛好家さん達と、それぞれの歴史観を共有できるような場所になればいいなと思っています

※※※※※記事に使う画像は、ネット上から無断で使わせて頂こうと思います。宜しくお願いします(ルール上問題ないのかな・・・汗)※※※※※

『士族の反乱』

【士族の反乱】
みなさんおはようございます。今日は士族反乱について説明をしていこうと思います。


<士族の反乱>


明治維新により、秩禄処分や断髪廃刀などが行われ、武士の特権や収入の道を絶たれた士族たちは<不平士族>と呼ばれ、彼らが政府に対し反乱を起こした一連の流れを士族反乱>と言います。


①佐賀の乱 1874年(明治7年)
俗にいう征韓論争に敗れ、下野した江藤新平が蜂起。鹿児島の西郷隆盛と連携を希望するも叶わず、佐賀県庁を襲撃するが、約一か月後鎮台や近衛師団により鎮圧。江藤は臨時裁判所にて斬首となる。


②敬神党の変 1876年(明治9年)
肥後士族、太田黒伴雄らが廃刀令に反発して起こした反乱。熊本鎮台司令長官と県令などを殺害するも、わずか一日で鎮圧される。熊本三大派閥(学校党・勤皇党・実学党)の一つで、林桜園に学んだ勤皇党の反乱であるとも言える。幕末四大人斬りに数えられる河上彦斉は、アニメるろうに剣心のモデルであると言われている。


③秋月の乱 1876年(明治9年)
敬神党の変に呼応して、福岡県秋月の士族、宮崎車之助らが蜂起するが、熊本鎮台小倉歩兵第14連隊を指揮する乃木希典により、鎮圧される。首謀者は臨時裁判所にて斬首。


④萩の乱 1876年(明治9年)
敬神党・秋月の乱に呼応する形で山口県士族前原一誠が蜂起。後の内閣総理大臣となる田中義一も参戦している。前原一誠は松下村塾出身で、維新十傑にも選ばれている人物。約一か月後、広島鎮台及び大阪鎮台により鎮圧。前原ら首領は臨時裁判所にて斬首。


この一連の士族反乱に、翌年反乱を起こす鹿児島西郷軍が何故呼応しなかったのか。その理由については未だ謎に包まれているのですが、西郷は、この反乱の流れが起こることについては予測ができていたと思われます。


それはそうです。維新を実行するということは、この世から殿様を始めとした武がいなくなることを意味していたからです。ですから、維新後、すぐに御親兵と呼ばれる近衛師団(天皇を護衛する軍隊)や、陸海軍を創設して、武士を再就職させる手順を踏んでいます。


それら、士族の働き先として朝鮮への出兵があったのではないでしょうか。決して征韓ではなく、兵を連れての外交という感覚です。それで士族の不平を発散させる狙いがあったのだと思われます。その朝鮮行きを、天皇の許可を得ていながら岩倉に取り消しにされた。



あらあら、またまた岩倉ちゃんですかぁ・・・(涙)


戦略的には、筆者は西郷に賛成です。隣国の清が侵略を受けている状態で開国をしたわけですから、日本を補給基地にして、朝鮮を経由すれば中国大陸やロシア大陸に侵攻を許してしまう。ですから、朝鮮としっかり連携し、アジアを侵略から守る必要があった。


朝鮮半島は、アジアを侵略する際、軍事上の最重要拠点となります。その後の日露戦争の際にも、それははっきりと露顕していますよね。


要するに、西郷は政治家ではなく、やはり軍人だったということなんでしょうね。軍人の戦略を、政治家である大久保や公家である岩倉に認めて貰えなかった。だから辞職したのでしょう。よ~くわかります。筆者が同じ立場でも、そりゃ辞めますよ(笑)


明治6年の政変(征韓論争)に敗れた以上、西郷と共に下野した多くの士族たちが、西郷と共に挙兵して、現政権を打倒しようとする動きが出てくるのは当然です。でも、ここで大きな内乱を起こして喜ぶのは外国勢力です。だから呼応せずに、我慢したのではないかな


ってことなんで~、次回は国内最大の内戦について書いてみるでごわんそかい(笑)

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