『西南戦争①』
【西南戦争について】
みなさんおはようございます。今回と次回の2回に分けて、国内最後の内戦について書いていこうと思います。
<西南戦争>①戦争が起きた背景について
1877年(明治10年)西郷隆盛を盟主として起きた士族反乱。国内で起こった最大・最後の内戦であり、この戦争を境に、自由民権運動が巻き起こることとなる。
1873年(明治6年)政府の職を辞し、鹿児島へ帰郷した西郷は、私学校を設立。目的は、不平士族の統率と教育である。アジア侵略を図る諸外国の脅威に備え、農業を中心とした経営を志し、将来の人材を育成するという理念を抱いていたものと思われる。
私学校の綱領には【敬天愛人】が掲げられています。
西郷を慕う士族が多く集まり、政府としては脅威に感じる側面も多くあったと推測される。明治9年に相次いで起こった士族の反乱に於いて、もし西郷が同調していたならばという意見も多くあるが、前回の記事にも書いた通り、西郷は我慢をしたのではないかと考えます。
西郷は帝国陸軍の創始者の一人であり、現役の陸軍大将です。政府の参議を務めていた人物でもあります。軍人として、海外の情勢について常に思慮を巡らせていたはずです。内戦をしている状況ではないと判断した。いざ、日本に対し侵略などの有事が生じた場合にのみ、自分の役割が発生すると考えていたと思います。
そのために私学校を設立し、不平士族を教育していたのでしょう。先ほども言いましたが、西郷は現役の陸軍大将です。大将の位にある人物は、数万人の部下を指揮する権限があります。会社で例えるなら、大企業の執行役員クラスであると言えます。陸軍ですから、数万人の生死を司る権限を有するということです。
しかも、明治維新を実際に主導した第一人者でもあるわけです。不平士族が発生することも十分承知していたはずですし、征韓論争に敗れたあとの士族反乱についてもある程度予見していたでしょう。それ位の想像ができなければ、陸軍大将などとても勤まりません。
しかし、以前の記事にも書きましたが、ここで田布施が登場します。倒幕から維新までは長州と薩摩の田布施が協力をしていたのです。しかし、実際の政が始まると、その思惑に差異が生じます。大久保利通は自分の理想を遂げるため、長州の田布施側に回りました。
結果的に、この決断が大久保と西郷の明暗を分けることに繋がると考えます。長州側の思惑に従わない存在は、全て消し去るという現実が表面化していくことになるのです。
江戸時代と異なり、絶対的な中央集権化を図り、富国強兵を政治目標としたわけです。鹿児島だけ勝手な政治をされては困ります。当然ですよねww
ですから、誰が悪で、誰が正義かどうかなんて議論は成立しないわけです。不平士族の気持ちも痛いほど理解できます。しかし、正論で言えば、長州田布施の考えが、道理に適っているのではという感想を持ちます。
そして、政府側は鹿児島に密偵を潜り込ませ、西郷や私学校の動静を探り、最終的には鹿児島にある三菱の兵器倉庫から武器弾薬を移動させるという行動に出たのです。このことが、西南戦争が勃発する契機となってしまうのです。
ってことなんで~、今回はここまでにしておくでごわんそかいっ(笑)