『西南戦争②』
【西南戦争】②西南戦争とは
みなさんおはようございます。今日は西南戦争の内容について書いていこうと思います。
<西南戦争とは>
筆者の考える西南戦争とは、不平士族と政府の争いではなく、薩摩田布施と長州田布施の戦いであると捉えています。最大の激戦地は、熊本県植木町にある田原坂です。熊本から北上する薩摩軍に対し、小倉から南下してきた小倉歩兵第14連隊が衝突した場所になります。この場所は、日本赤十字発祥の地となりました。敵味方関係なく負傷者を救護するという博愛精神が生まれた場所と言われています。
さて、西郷が決起を決意した理由については、前回の記事で書きましたが、政府に因る密偵の派遣と武器弾薬の移動でした。それに私学校の若者が激怒し、武器庫を襲撃したことがきっかけとなります。西郷とすれば青天の霹靂であったことでしょう。「しまった」と叫んだと言われています。
その事件を受け、ついに西郷を含め、私学校党幹部は軍議を開くことになるのですが、その際、西郷の弟である西郷小兵衛は海路作戦を進言します。また、主な幹部もその策を支持しています。鹿児島にある軍艦で長崎を襲撃し船を強奪、それを利用して東京に向かうという作戦です。最低限の被害で、効率よく戦果を挙げるには最も採用されるべき作戦だと言えますね。
しかし、多くの反対を押し切り西郷は陸路作戦を宣言するのです。素人が考えても、数万人の軍勢が徒歩で九州を北上し、本州を経由して東京まで向かう作戦が、如何に愚かな作戦であるか理解できるでしょう。
体力的にも相当な負担が掛かる上、食糧や軍費もその分多く必要です。また途中で政府軍の頑強な抵抗に遭遇することは誰の目にも明らかです。現役の陸軍大将である西郷が採る作戦とはとても思えません。
しかし、ここにこそ西郷の意図が隠れています。彼は、東京の政府にではなく、長州の田布施と決着をつけたかったのだと筆者は考えています。西郷は島津斉彬に登用されて以来、ずっと薩摩の田布施と共に行動をしていた訳です。大久保が長州側に去ったあと、彼は長州の方針に対し反抗を続けていたのだと判断ができます。
ですから、西南戦争の前に起こった九州の不平士族反乱には同調しませんでしたが、陸路作戦を採用することで、今回こそはその九州の不平士族と連携し、長州田布施を攻めようと考えていたのでしょう。それ以外の理由で、愚直とも言える陸路作戦を採ることは考えにくいと言えます。先に散った、佐賀の江藤新平など多くの九州の同志に対する弔いの念があったのではないかと推測しています。
人情家である西郷らしい考え方だなぁと思えます。また彼の信条である敬天愛人の思想にも合致するとも言えますね。天が味方をしてくれるのではないかと考えたのでしょう。
しかし、結果としてはみなさんもご存知の通り、熊本を越えることができず、多くの戦に破れ鹿児島の城山にて自刃することとなってしまいます。西南戦争終結の後、日本は急激な自由民権運動が起こることになります。そして、議会の設置や憲法の制定など、表面上は民主国家として変化を遂げていくことになるのです。
<西郷軍>総大将 西郷隆盛(陸軍大将)
1番大隊長 篠原國幹(陸軍少将)
2番大隊長 村田新八
3番大隊長 永山弥一郎
4番大隊長 桐野利秋(陸軍少将)
5番大隊長 池上四郎
6番大隊長 越山休蔵
7番大隊長 児玉強之助
熊本隊長 池辺吉十郎 佐々友房
協同隊長 宮崎八郎
竜口隊長 中津大四郎
中津隊長 増田宗太郎
他多くの協力隊が存在しました
<政府軍>総大将 有栖川宮熾仁親王
陸軍司令部 山縣有朋(長州) 川村義純(薩摩) 大山巌(薩摩)
熊本鎮台司令長官 谷干城(土佐)参謀長 樺山資紀(薩摩)児玉源太郎(長州)
小倉歩兵第14連隊長 乃木希典(長州)
全国の鎮台及び連隊・大隊
警視抜刀隊 藤田五郎(新撰組)佐川官兵衛(会津)
西郷軍死者6800人 政府軍死者6400人
ってことなんで~、国内最後の内戦については簡単でしたがこれで終わります。