『新説幕末明治維新』

筆者の研究と創作を交えた新説で幕末・維新を書いてみます。新しい<読み物>として捉えて頂ければ幸いです

あくまでも【創作】として書いていきます。たくさんの歴史愛好家さん達と、それぞれの歴史観を共有できるような場所になればいいなと思っています

※※※※※記事に使う画像は、ネット上から無断で使わせて頂こうと思います。宜しくお願いします(ルール上問題ないのかな・・・汗)※※※※※

『大東亜戦争』

【大東亜戦争】


みなさんこんにちは。いよいよ今日から数回に渡り、昭和の時代に起こった戦争について書いていこうと思います。非常に複雑ですので、できるだけ簡単に説明をしようと思っています。詳しく知りたい方は調べて頂けると幸いです(笑)


【日中戦争】
1937年(昭和12年)中国の北京近郊盧溝橋で、関東軍による爆破事件をきっかけにして起こった日中間の戦争。昭和20年8月15日まで継続する。


【第二次世界大戦】
1939年(昭和14年)ドイツ軍によるポーランド侵攻をきっかけにして起こった世界戦争。連合国アメリカ・イギリス・オーストラリアなど)と枢軸国ドイツ・イタリア・日本)との戦いで、昭和20年まで継続。


【大東亜戦争】
東条英機内閣で決定した正式名称。白人によるアジア支配からの脱却を目指し、アジア民族の共存共栄を目的とした大東亜共栄圏の建設を主たる目的としていた。


【太平洋戦争】
昭和20年の終戦後、アメリカにより命名された。日米戦争の主な戦場が太平洋上であったことからその名がついたとされる。


取り敢えず、分かり難くなっている点について簡単に説明をしてみました。要約すると、日中戦争を戦っていた時期に、第二次世界大戦が勃発、アメリカとも戦った戦争を太平洋戦争と呼びます。筆者的には<大東亜戦争太平洋戦線の方がわかり易いのではないかと考えています。


明治維新が起きたのが1867年です。日中戦争が1937年。維新から数えて70年となります。鎖国を解いてから僅か70年で、日本は世界中を相手に闘うところまで発展をしていたと言うことになりますね。しかも、アジア全体のリーダーに成長していたわけです。


資源もなく、国土も小さいアジアの国日本。植民地利権を巡って覇権を争う世界の大国に対抗しようとしていた多くの先人たち。誇らしいと思いませんか?


次回からの記事でも説明していくつもりですが、教科書で教えられた事実とは全く異なる真実が見えてくるはずです。日本人は終戦後、ずっと自虐史観を植えつけられてきました。それをこれからの記事で少しずつ開放していけたらと考えています(笑)


ってことなんで~、今回はここまでにしておこうと思います。ではっ(笑)

『2.26事件』

【2.26事件】


みなさんこんにちは。今日は2.26事件について簡単に説明してみようと思います。


<2.26事件>


1936年(昭和11年)2月26日。陸軍の青年将校が起こした軍事クーデター。首相官邸・朝日新聞社・陸軍省・警視庁などを襲撃。大蔵大臣の高橋是清や教育総監の渡辺錠太郎ら9名を殺害。この事件を契機に岡田内閣は総辞職することとなります。


当時の陸軍内部は、2大派閥「皇道派」「統制派」に分かれており、皇道派に拠って引き起こされた事件となります。皇道派はどちらかと言うと武闘派であり、統制派は文官派と表現することができます。統制派には、東条英機石原莞爾など、陸軍の主要幹部が顔を揃えています。


クーデターが起こった背景としては、5.15事件の時と同様、農村の困窮や経済格差などがありました。東京など都会だけが豊かになり、農村などの地方は経済的に困窮を極めていた時期で、娘を売るといった悪しき歴史も残っています。そのような現状下、政府や経済政策を策定する大蔵省への不満が高まっていたと言えます。


しかし、高橋是清を殺害した点については、筆者は疑問を覚えます。高橋是清は日露戦争の時に多額の外債を集め、戦役の勝利に大きく貢献し、大蔵大臣を何度も務め、総理大臣にも就任していた時期もあるほど相当優秀な政治家でありました。


対米戦争が現実味を帯びつつあったこの時期に、彼を失った政府の損失は計り知れないものがあったと言えるでしょう。


なんとなく、明治初年の頃と雰囲気が似ていると感じませんか?不平士族が政府への不満を武力で解決しようと蜂起した頃のそれと非常に酷似しているよう思えてきます。


クーデター後、東京には戒厳令が敷かれ、昭和天皇に拠り解散命令が発せらた3日後に鎮圧。首謀者は処刑されることになります。5.15事件の際も感じましたが、決して暴力で解決することが正しいとは思いませんが、この時代、彼ら青年将校の気持ちを考えると、胸が熱くなるのを抑えることができません。


決して私利私欲ではなく、国家や故郷の家族・友人を想っての決起だったはずです。自らの命を賭した決死の訴えであったわけです。果たして、今の若者にそんな行動ができるでしょうか・・・・・あなたが同じ立場であったら、どう感じ、どう動きますか?


っていうことなんで~、次回からはいよいよ大東亜戦争に突入するでありますっ

『国際連盟脱退』

【国際連盟脱退】


みなさんおはようございます。今日は松岡洋右(山口田布施)国際連盟脱退について書いてみます。


<国際連盟脱退とは>
日本が1932年、ソ連と中国・朝鮮半島の境界線上に建国した国家【満州国】満州事変の調査を行ったリットン調査団の調査報告に対し、陸軍や右翼を中心に反対運動が激化する。


また、常任理事国でもあった日本は有色人種の差別を排除する意見を強く主張するも、国際連盟で1対42の採決を受け、1933年国際連盟を脱退。これ以後、日本は国際社会に於いて孤立を深めることとなる。イタリア及びドイツと日独伊三国同盟を締結することに繋がっていきます。


明治維新以降のアジア諸国は、とにかく大国の植民地政策の犠牲となり続けていました。イギリス・フランス・ロシア(ソ連)・アメリカ・オランダなど多くの白人がアジア全体を蹂躙していたのです。


アジアで唯一の先進国であり、国際連盟の常任理事国でもあった日本。アジア(有色人種)白人の支配から開放することが最大の目的でした。それを快く思わない外国勢力が日本を徹底的に排除しようとするわけです。


松岡洋右の採った行動は、侍の魂を受け継いだ非常に勇敢な行動だと筆者は考えます。みなさんはどう感じられますか?


しかし教科書では、満州国を勝手に建国し、外国と強調ができず、孤立し、国際連盟をブチ切れて脱退した上、中国を始めとするアジア諸国を侵略した。だからアメリカやイギリスと戦争をすることになったと教えられてきました。


だから、二度とそんな勝手な行動をしないようにしなさい、反省するようにと学校で教育を受けたのです。


私たちの先祖は、わずか数十年前まで、こんな理不尽と闘っていたわけです。江戸時代とかの話ではありません。昭和の時代の話です。


今からでも遅くはありません。正しいことを知りましょう。何が起こり、何をどう考え、どう動いたのか。これが歴史です。正しい歴史を知りましょう。間違いは反省すれば良い。


この事件以後、日本は世界を相手に戦争を行うことになるのですが、今の日本を、そして日本人を、家族や国を護るために散って逝かれた先人たちは、どう思っていらっしゃるでしょうか。無念で、残念で、仕方がないのではないでしょうか・・・・・死んでも死に切れないと感じていらっしゃると思います。


今を生きる子孫である私たちができること。それは、正しい認識を持つ事と感謝しかありません。


ってことなんで~、今日はここまでにしておこうと思います。おしまいっ(拝)

『5.15事件』

【5・15事件】

みなさんこんにちは。いよいよ今日から時代は昭和に突入します。多少複雑になってくると思いますが、できるだけ簡潔に説明をするつもりです。どうぞよろしくお願いします(笑)


<5・15事件>


1932年(昭和7年)5月15日。武装した海軍の青年将校が総理大臣公邸を襲撃。犬養毅首相を殺害する。背景としては、昭和4年に起こった世界大恐慌。企業の倒産や失業者の急増・農村の困窮など、政府や大企業への不満が充満していた。


将校とは、一定以上の教育を受けた少尉以上の階級の者を指す。現在で言えば、防衛大学を卒業した自衛官ということになるだろう。そのため、一般の兵卒と比較しても、時勢を読み解く能力や、状況分析能力に長けていたと考えられる。


また、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約に反対する軍部の青年が多く存在していました。元々、貧しい農村出身の軍人が多く、内閣及び政府に拠って保護されている大企業への不満が高まっていた時期だと言える。


この事件を、歴史はどう評価するでしょうか。これを読んで頂いているあなたはどう感じられますか?暴力で総理大臣を殺害するなんて、乱暴であり得ないと感じますか?そうですね、確かにそう思われる方も多いでしょう。


では、明治維新の時代についてはどうですか?みんなが大好きな坂本龍馬だって幕府の役人を一人射殺しています。新撰組や奇兵隊も同様です。それぞれが、それぞれの正義に従って行動していた時代です。誰が正しく、誰が悪なのか。それを一元的に判断することは非常に難しいと言えるわけです。


貧しい農村出身の将校たちは、自分の親、兄弟、親せきや友人たちが一生懸命働いても、食べるものも着るものもなく、病気になっても薬が買えない。赤ん坊が飲むミルクすら買うことができない。そんな状況をどうにか変えようとしただけかも知れないのです。


確かに、現代の感覚で評価すれば、暴力で解決するなんてあり得ない。ですよね。それは筆者も十分に理解できます。しかし、100年前の日本、そして世界では、それがある意味通用した時代であるということです。時代背景をしっかり想像しながら事実と向き合う必要があると思います。


世界中が苦しんでいた時代。何故、力を合わせて乗り越えることをしようとせず、相手から「何かを」奪うことで解決しようとするしかなかったのでしょうか・・・


コロナ禍の現在。そんな時代に想いを馳せてみると、今何に取り組むべきか。その答えがなんとなく見えてくるような気がしませんか?


ってことなんで~、今日はこのくらいにしておこうと思います。がんばろう日本!

『日露戦争』

【日露戦役】
みなさんこんにちは。今日は日露戦争について、簡単に説明をしていくことにします。


<日露戦争>


日清戦争開戦の10年後、1904年(明治37年)から1905年にかけ、日本とロシア帝国の間で起こった戦争。朝鮮半島と満州の権益を巡る戦いで、主な戦場は満州南部と遼東半島。旅順の激闘日本海海戦を経て、日本側の勝利で終結。ポーツマス条約を締結する。


朝鮮半島の権益獲得と樺太の南半分、大連と旅順港の租借権を得るも、賠償金が獲得できず、国民からは不満の声が高かった。


前回の日清戦争でもそうでしたが、ロシア帝国の南下を防止すること。そのために朝鮮半島を死守する必要性が最重要課題であった日本。その動きに対し、警戒感を強く持ったロシアと日本が対立を深めます。しかも、日本は1902年にイギリスとの間で日英同盟を締結しています。


イギリスと同盟を結んだことは、大国であるロシアを大いに刺激したようです。清を侵略していたイギリス。ロシアから朝鮮半島以南に進出するには、どうしても清を経由しなければなりません。そこへ、開国したばかりの小国日本が加勢をする形となったわけです。


加えて、戦費調達を担った大蔵大臣、高橋是清が世界中からものすごい金額を集めることに成功します。それだけ、ロシアは諸外国から嫌われていたと言うことでしょう。


ロシアとしては、日本が邪魔で仕方がなかったと考えることができます。そして、皇帝二コライ二世は簡単に勝利が出来ると踏んでいたと思われます。しかし、日本は203高地で数万人の戦死者を出すなど、相当な犠牲を払いますが、乃木希典から指揮を引き継いだ児玉源太郎の戦略に拠り高地を攻略。最重要拠点である旅順港を勝ち取ります。


続く日本海海戦に於いて、東郷平八郎の指揮する帝国海軍が、世界最強の呼び声高いバルチック艦隊を攻略し、講和へと繋げることになります。


筆者が一番印象に残るエピソードとしては、水師営の会見です。武士道と騎士道とがお互いを尊重。見事な会見となり、諸外国のメディアを通じて世界中に報道されました。乃木将軍を世界的に有名にしたエピソードとなります。


この戦争で、日本は辛うじて超大国であるロシアに勝利を収め、ますます国際社会においてその存在感を高めることになっていくのですが、実質的には引き分けに近い勝利であったため、ロシアは日本に対する恨みの感情を強く残すことになります。


後の第二次世界大戦の際、日本とロシア(当時ソ連)とは、お互いに不可侵条約を締結していましたが、日本が敗戦する寸前、突如条約を破棄し北海道に進出。戦勝国となり、北方領土を強奪するという行為にでます。


ロシアが北方領土を何故強奪し、今なお返還しないのか。それは地図を見れば簡単です。ロシアが太平洋に出るには、ぐるっと日本を迂回する必要があったからです。北方領土を自国の領土とすることで、彼らはすんなりと太平洋へ進出することが可能になりました。


明治維新後、日本がアジアを侵略し続けたと教科書で教えられましたが、そろそろみなさんその嘘に気がついてこられたのではないでしょうか・・・・・


ちなみに、征露丸ってお腹の薬は日露戦争に出征された兵隊さんが使っていました(笑)


ってことなんで~、ものすごく簡単ではありますが今日はここらでおしまいっ(笑)