『新説幕末明治維新』

筆者の研究と創作を交えた新説で幕末・維新を書いてみます。新しい<読み物>として捉えて頂ければ幸いです

あくまでも【創作】として書いていきます。たくさんの歴史愛好家さん達と、それぞれの歴史観を共有できるような場所になればいいなと思っています

※※※※※記事に使う画像は、ネット上から無断で使わせて頂こうと思います。宜しくお願いします(ルール上問題ないのかな・・・汗)※※※※※

『日清戦争』

【日清戦争】
みなさんこんにちは。今日は日清戦争について簡単に書いていこうと思います。


<日清戦争>


別にインスタントラーメン業界の競争というわけではありません(笑)


日清戦争は、1894年(明治27年)から1895年にかけ、日本と清国(中国)との間で行われた。李氏朝鮮朝鮮半島の権益を巡る闘いで、結果としては日本側の大勝で終結。下関条約が締結されました。


李氏朝鮮の独立台湾遼東半島及び巨額の賠償金を獲得するも、遼東半島はロシアによる三国干渉に因って奪われることとなる。維新後初の対外戦争であり、この勝利を以て、日本は、諸外国から、近代国家であるという扱いを受けることになります。


台湾については、侵略目的というよりも、独立の前段としての統治が目的であったと筆者は認識しています。遼東半島については、ロシア軍の南下を防止する目的が一番強かったと理解しています。いずれにしても、先日も書いた通り、朝鮮半島周辺は、アジアに於ける、軍事上の最重要拠点であるわけです。


一番解りやすいのは、地図を見ることです。日本と朝鮮半島、それと亜細亜諸国の位置関係を俯瞰して見てみてください。そこに答えがあるはずです(笑)


少し後に、同じ理由から、韓国も併合することになるのですが、未だに韓国は、統治と侵略の違いを認めてくれません。日本も一部迷惑を掛けた側面はあるはずでしょう。しかし、アジアが共に協力し、白人の支配に対抗するしか手段はなかったのです。ですから、当時アジアの中では先進国であった日本が、資金の面なども含め、統治をして、共同戦線を張ろうと努力をしていました。


その証拠として、台湾と朝鮮には当時の国立大学である帝国大学が設置されています。日本の国費を使って、優秀な人材の育成を行っていたということになりますね(笑)


日清戦争以降、日露戦争、第一次大戦、第二次大戦と戦争が続いていくことになるわけですが、日本は一貫してアジア解放を第一目的に据えて行動をしています。そんな行動を快く思わない国の代表が、そうロシア帝国でした。そしてアメリカもです。


東洋の小さな島国が、帝国ロシアの縄張りでコソコソ何かをやっている。自分たちの利権を奪う脅威になりかねない。的な、イメージを持たれます。ですから、三国干渉を仕掛け、まんまと遼東半島を強奪していきました。


次回にも書きますが、ロシアという国は、国土は世界一広いのですが、そのほとんどが氷で覆われており、作物も良く育ちません。ですから、中国以南の広大な土地と、太平洋に出ることができる南側の海岸線沿いの土地が欲しくて堪らないわけです。


逆にそこを取られると、日本は安全保障上、非常に危険度が増すことになります。ですから、アジア諸国と連携する必要性を常に考えていたのです。西郷隆盛が明治6年に考えていた構想と重なりますよね。


どちらかと言えば、好戦的である平氏の良い面がそうさせたのかも知れませんね(笑)源氏はあまり闘いを得意としませんので(笑)


って、ことなんで~、次回は日露戦争について書いてみるけんっ(笑)

『西南戦争以後の明治日本』


【自由民権運動の高まり】


みなさんこんにちは。今日は西南戦争終結後の明治日本について簡単に書いていこうと思います。


<その後の明治日本>


自由民権運動とは、帝国議会(国会)を設立し、民主的に決まりごとを作り、国家運営を行っていく思想に基づいた活動のことを指します。明治13年、愛国社の大会が開催され、10万人近くの署名を集める。板垣退助は自由党福地源一郎は立憲帝政党、大隈重信は立憲改進党を設立し、国会設立を目指し活動を行う。


明治18年、太政官制度を廃し、内閣制度を導入初代内閣総理大臣には、伊藤博文が就任。明治22年、大日本帝国憲法発布。明治23年、教育勅語が発布される。


<初代内閣発足時閣僚名簿>


内閣総理大臣 伊藤博文(長州)
外務大臣   井上 馨(長州)
内務大臣   山縣有朋(長州)
大蔵大臣   松方正義(薩摩)
陸軍大臣   大山 巌(薩摩)
海軍大臣   西郷従道(薩摩)
司法大臣   山田 顯義(長州)
文部大臣   森  有禮(薩摩)
農商大臣   谷  干城(土佐)
逓信大臣   榎本武揚(旧幕臣)


<帝国憲法発布時内閣閣僚名簿>


内閣総理大臣 黒田清隆(薩摩)
外務大臣   大隈重信(佐賀)
大蔵大臣   松方正義(薩摩)
陸軍大臣   大山 巌(薩摩)
海軍大臣   西郷従道(薩摩)
司法大臣   山田 顯義(長州)
文部大臣   森  有禮(薩摩)
農商大臣   井上 馨(長州)
逓信大臣   榎本武揚(旧幕臣)


<大日本帝国憲法の特徴>


①立憲君主制(軍の統帥権・統治権・立法権は天皇にある)
②議会制度(衆議院と貴族院の二院制を採用し封建制を否定)


※現在の日本国憲法との相違点についてはまたの機会に紹介しようと思いますが、聖徳太子が作った十七条の憲法は廃止になっているわけではありません※


議会と憲法を制定した事で、いよいよ世界と対等に外交を行っていくことになります。


って、ことなんで~今日はこのくらいにしておくけんっ(笑)

【紀尾井坂の変】

【大久保利通暗殺事件】
みなさんこんにちは。今日は明治維新編のラスト。大久保利通暗殺について書いてみます。


<紀尾井坂の変>


明治政府にあって、内務卿(実質上の総理大臣)を務めていた大久保利通が、東京都千代田区紀尾井町に於いて、1878(明治11年)石川県士族及び島根県士族に拠り暗殺された。


大久保利通については、以前の人物伝でも書きましたが、実務に長けた政治家として、非常に高く評価できる人物です。しかし、戊辰戦争から西南戦争までの10年間を客観的に俯瞰してみると、やはり当時は嫌われる存在として受け止められていたのでしょう。


維新後の大久保は、人々の眼には、あたかも革命を成し遂げ権力の座を勝ち取った独裁者であるかのように映ったのかも知れません。TVも新聞もインターネットも無かった時代のことです。そのような誤解や偏見を持たれることも当然あったことでしょう。


盟友である西郷隆盛と決別し、長州田布施側に回ってまで大久保は自らの信念を貫こうと奮闘していたはずです。そして、西南戦争で実質的に西郷を自刃に追い込んだことによる自責の念にも苛まれていたことでしょう。


明治維新には、たくさんの矛盾が存在します。革命と言うものは、破壊するところまでは、比較的労力を伴いません。【破壊のあとの創造これが実はものすごく大変な作業となります。革命以前と以後。必ず多くの矛盾が生じます。その矛盾を抱えながら、また向き合いながら、新しい何かを創造する。これほど労力を伴うものはありません。


様々な意見や考え方があるとは思いますが、筆者の中では、最後の最後まで維新を諦めず、時には自分を殺し、やり遂げようと命を懸けた人物こそ大久保利通その人ではなかったかと考えます。


維新10傑の中で、公家の岩倉を除いては、士族出身者の中で最後に死を迎えました。暗殺されたり、病死したり、刑死したりの違いこそあれ、彼は最後まで政府に残り、己の志を死ぬ寸前まで果たそうと努力を怠りませんでした。


そこだけを見ても、大久保は最大級に評価されるべき政治家でありました。明治維新で、政府や関係者が抱えたとてつもなく大きな矛盾。それを最後まで抱えたまま死んでいった人物であったと言えるのではないでしょうか。


大久保を暗殺した黒幕については・・・・・みなさんのご想像にお任せしたいと思います。


西南戦争終結、そして紀尾井坂の変。これを以て明治維新の第1段階は終了したものであると考えます。以降、日本は自由民権運動帝国議会開設憲法制定と進み、民主国家へと変貌を遂げることとなります。そして、政治の中心は長州田布施に拠って行われていくこととなっていくのです。


民主国家日本・・・・幕末の志士や維新の元勲たちが描いた民主国家像。


現在の日本も表面上は民主国家ではあります。果たして、彼らが描いた明るい予想図通りと
なっているのでしょうか。これを読んで頂いたあなたにはどう映りますか・・・・


多くの生命と引き換えに成し遂げられた明治維新。維新の功罪について語ることは辞めておこうと思います。多くの尊い魂に・・・・・ただただ献杯を捧げたいと思います。


ってことなんで~、明治維新の章はこれにて終了でございます。次回からは現代史について
ボチボチ書いていこうと思うので、良かったら読んで欲しいでごわす~~

『西南戦争②』

【西南戦争】②西南戦争とは


みなさんおはようございます。今日は西南戦争の内容について書いていこうと思います。


<西南戦争とは>
筆者の考える西南戦争とは、不平士族と政府の争いではなく、薩摩田布施長州田布施の戦いであると捉えています。最大の激戦地は、熊本県植木町にある田原坂です。熊本から北上する薩摩軍に対し、小倉から南下してきた小倉歩兵第14連隊が衝突した場所になります。この場所は、日本赤十字発祥の地となりました。敵味方関係なく負傷者を救護するという博愛精神が生まれた場所と言われています。


さて、西郷が決起を決意した理由については、前回の記事で書きましたが、政府に因る密偵の派遣武器弾薬の移動でした。それに私学校の若者が激怒し、武器庫を襲撃したことがきっかけとなります。西郷とすれば青天の霹靂であったことでしょう。「しまった」と叫んだと言われています。


その事件を受け、ついに西郷を含め、私学校党幹部は軍議を開くことになるのですが、その際、西郷の弟である西郷小兵衛は海路作戦を進言します。また、主な幹部もその策を支持しています。鹿児島にある軍艦で長崎を襲撃し船を強奪、それを利用して東京に向かうという作戦です。最低限の被害で、効率よく戦果を挙げるには最も採用されるべき作戦だと言えますね。


しかし、多くの反対を押し切り西郷は陸路作戦を宣言するのです。素人が考えても、数万人の軍勢が徒歩で九州を北上し、本州を経由して東京まで向かう作戦が、如何に愚かな作戦であるか理解できるでしょう。


体力的にも相当な負担が掛かる上、食糧や軍費もその分多く必要です。また途中で政府軍の頑強な抵抗に遭遇することは誰の目にも明らかです。現役の陸軍大将である西郷が採る作戦とはとても思えません。


しかし、ここにこそ西郷の意図が隠れています。彼は、東京の政府にではなく、長州の田布施と決着をつけたかったのだと筆者は考えています。西郷は島津斉彬に登用されて以来、ずっと薩摩の田布施と共に行動をしていた訳です。大久保が長州側に去ったあと、彼は長州の方針に対し反抗を続けていたのだと判断ができます。


ですから、西南戦争の前に起こった九州の不平士族反乱には同調しませんでしたが、陸路作戦を採用することで、今回こそはその九州の不平士族と連携し、長州田布施を攻めようと考えていたのでしょう。それ以外の理由で、愚直とも言える陸路作戦を採ることは考えにくいと言えます。先に散った、佐賀の江藤新平など多くの九州の同志に対する弔いの念があったのではないかと推測しています。


人情家である西郷らしい考え方だなぁと思えます。また彼の信条である敬天愛人の思想にも合致するとも言えますね。天が味方をしてくれるのではないかと考えたのでしょう。


しかし、結果としてはみなさんもご存知の通り、熊本を越えることができず、多くの戦に破れ鹿児島の城山にて自刃することとなってしまいます。西南戦争終結の後、日本は急激な自由民権運動が起こることになります。そして、議会の設置や憲法の制定など、表面上は民主国家として変化を遂げていくことになるのです。


<西郷軍>総大将 西郷隆盛(陸軍大将)


1番大隊長 篠原國幹(陸軍少将)
2番大隊長 村田新八
3番大隊長 永山弥一郎
4番大隊長 桐野利秋(陸軍少将)
5番大隊長 池上四郎
6番大隊長 越山休蔵
7番大隊長 児玉強之助


熊本隊長    池辺吉十郎 佐々友房
協同隊長  宮崎八郎
竜口隊長  中津大四郎
中津隊長  増田宗太郎
他多くの協力隊が存在しました


<政府軍>総大将 有栖川宮熾仁親王


陸軍司令部 山縣有朋(長州) 川村義純(薩摩) 大山巌(薩摩)
熊本鎮台司令長官 谷干城(土佐)参謀長 樺山資紀(薩摩)児玉源太郎(長州)
小倉歩兵第14連隊長 乃木希典(長州)
全国の鎮台及び連隊・大隊
警視抜刀隊 藤田五郎(新撰組)佐川官兵衛(会津)


西郷軍死者6800人 政府軍死者6400人


ってことなんで~、国内最後の内戦については簡単でしたがこれで終わります。

『西南戦争①』

【西南戦争について】

みなさんおはようございます。今回と次回の2回に分けて、国内最後の内戦について書いていこうと思います。


<西南戦争>①戦争が起きた背景について


1877年(明治10年)西郷隆盛を盟主として起きた士族反乱。国内で起こった最大・最後の内戦であり、この戦争を境に、自由民権運動が巻き起こることとなる。


1873年(明治6年)政府の職を辞し、鹿児島へ帰郷した西郷は、私学校を設立。目的は、不平士族の統率と教育である。アジア侵略を図る諸外国の脅威に備え、農業を中心とした経営を志し、将来の人材を育成するという理念を抱いていたものと思われる。


       私学校の綱領には【敬天愛人】が掲げられています。


西郷を慕う士族が多く集まり、政府としては脅威に感じる側面も多くあったと推測される。明治9年に相次いで起こった士族の反乱に於いて、もし西郷が同調していたならばという意見も多くあるが、前回の記事にも書いた通り、西郷は我慢をしたのではないかと考えます。


西郷は帝国陸軍の創始者の一人であり、現役の陸軍大将です。政府の参議を務めていた人物でもあります。軍人として、海外の情勢について常に思慮を巡らせていたはずです。内戦をしている状況ではないと判断した。いざ、日本に対し侵略などの有事が生じた場合にのみ、自分の役割が発生すると考えていたと思います。


そのために私学校を設立し、不平士族を教育していたのでしょう。先ほども言いましたが、西郷は現役の陸軍大将です。大将の位にある人物は、数万人の部下を指揮する権限があります。会社で例えるなら、大企業の執行役員クラスであると言えます。陸軍ですから、数万人の生死を司る権限を有するということです。


しかも、明治維新を実際に主導した第一人者でもあるわけです。不平士族が発生することも十分承知していたはずですし、征韓論争に敗れたあとの士族反乱についてもある程度予見していたでしょう。それ位の想像ができなければ、陸軍大将などとても勤まりません。


しかし、以前の記事にも書きましたが、ここで田布施が登場します。倒幕から維新までは長州と薩摩の田布施が協力をしていたのです。しかし、実際の政が始まると、その思惑に差異が生じます。大久保利通は自分の理想を遂げるため、長州の田布施側に回りました。


結果的に、この決断が大久保と西郷の明暗を分けることに繋がると考えます。長州側の思惑に従わない存在は、全て消し去るという現実が表面化していくことになるのです。


江戸時代と異なり、絶対的な中央集権化を図り、富国強兵を政治目標としたわけです。鹿児島だけ勝手な政治をされては困ります。当然ですよねww


ですから、誰が悪で、誰が正義かどうかなんて議論は成立しないわけです。不平士族の気持ちも痛いほど理解できます。しかし、正論で言えば、長州田布施の考えが、道理に適っているのではという感想を持ちます。


そして、政府側は鹿児島に密偵を潜り込ませ、西郷や私学校の動静を探り、最終的には鹿児島にある三菱の兵器倉庫から武器弾薬を移動させるという行動に出たのです。このことが、西南戦争が勃発する契機となってしまうのです。


ってことなんで~、今回はここまでにしておくでごわんそかいっ(笑)